shaula

愛すべき赤の他人

【卒論より】方向音痴/ハルト【もう無理書けん】

卒論提出まで残り1か月ほどとなった昨年11月末、冗談抜きに白紙の原稿から全力で逃げていた。留年ダービー首位から奇跡の復活を遂げて進級し、1年生並みの時間割をこなした4年春を経て、今ここで必修8単位を落とすなんて馬鹿な真似は許されない。さすがになんとかしないとまずいだろうということで、とりあえずゼミの先生・かずおに「たすけてください」とメールを送った。

かずおの提案に乗ったわたしは”大学生のうちに書いた掌篇まとめログ”とでもいうようなpixivじみた掌篇集を、4年間の集大成として上梓することとなった。そのうち書き下ろしはたったの1篇、5000字程度という手の抜きようである。もうちょっとどうにかならなかったのか? それは本人がいちばん思ってることだから勘弁してくれ。

 

なんとか読むに堪える形にして提出締切日を迎え、かずおもしもし(卒論面接、口頭試問などと呼ばれるzoom面接)を迎えた。腐ってもわが著作、それなりに魂を削って向き合っていたので、かずおもしもしが無事に終われば晴れて自由の身となるはずだった。

はずだったのだ。

あろうことか、かずおはどこぞの発表の場にわたしの小説を推薦したいと持ちかけてきた。さようなら春休み。こんにちは締切――こうしてわたしは20日間の猶予を与えられ、推薦するに値する小説の執筆に追われることとなった。たすけて~

毎晩Twitter夜勤などと称して夜更かしをしながら、バイト5~6連勤の合間を縫って書いては消し書いては消し書いては寝落ちして今日を迎えた。前の晩に書いた最高の文章も、明くる日読み返すと素晴らしい寝言に様変わりしていた。もうほんとにこれ以上向き合いたくない。寝ぼけてメイドカフェの求人フォームを送信していた日もあった。毎日抱いていたヌオーのぬいぐるみはだんだんくびれができてきた。極めつけはmacbookだ。彼奴め、この大事な時に限って起動しなくなるという最悪の事態に陥りやがった。もう悪意があるとしか思えない。

それでもなんとか人様に読ませられるだけの形にはもってこられたのではないかと思う。1篇目に関しては再録なので、目新しいのは書き下ろした2篇目のみかもしれない。とりあえず卒論として提出したうちの2篇を並べて推薦するとのことだったので、かずおに送った原稿をそのままコントロールA、C、Vしてここに投げつけた。ここ20日間で最も生き生きと書いている文章がこの大層なまえがきであることは悲しいが、とにかく人助けだと思って読んでほしい。そして正直な感想が欲しい。報われたい。かずお~~これでいいって言ってくれ~~~~~

 

2021/02/20  1:04 縦に細長いアップルパイを食べながら

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◆方向音痴

 

目を開けているのか、閉じているのか、分からないほどの真っ暗闇に微かな亀裂がはいった。

何かを受信したスマートフォンが場違いな眩しさで光る。目を細めながらゆっくりと手を伸ばせば、からだは慣れない手触りの布を感じとる。左隣に気を遣いながらゆっくり、上体を起こす。背中と腰が重い。

片手にスマートフォンを握ったままぼうっとしていると、だんだん部屋の輪郭があらわれてきた。暗がりに慣れてきた目が窓をとらえる。ぴったり閉められたカーテンの向こうの世界から、ほんのりと、水が満ちてくるように、朝のひかりが漏れている。小さなテーブルに置かれたガラスの灰皿がそのひかりを受け止めて、静かにそこに在る。黒いソファ、背もたれに雑に掛けられた上着、二つの鞄。なんだかいたたまれなくて目を逸らしてしまう。逸らした先にはスカートが、ベルトが、ブラウスが、落ちている。剥がされたときの形をとどめている衣服たちは、過ぎた夜更けのことが誤魔化しようのない事実なのだと物語る。

手の中で画面がまた光った。

嫌な予感、と思ってしまった。思ってしまったことが、自分がしているのは悪いことだという何よりの証拠なのだ。喉から肺にかけて、大きな濁りの塊がつっかえている。動悸がする。できることなら見たくない通知欄を、祈るように開く。

『ごめんもう信じられない』

『もうわかんないよ』

画面を閉じた。

──あぁ、何やってんだろ、あたし。

新着メッセージは恋人からだった。その恋人という関係もじきに終わりが、いや、たった今自分の手で終わりにさせてしまった、というのが正しいか。

変な気持ちだ。混乱と絶望と後悔と、安心。ほっとするような状況なわけがないのに。笑いがこみ上げてくる。馬鹿だなあ、まったくもう。なんて笑っている場合じゃないのに。ついに壊れてしまったみたいだ。エラーを吐いて暴走するロボットの断末魔もこんなぐあいだろうか。なんて、どうでもいいのに。

もぞもぞと動く気配がして、寝具が左に引っ張られる。

「……せんぱい?」

甘えるような調子の暢気な声に呼ばれた。

「あっごめん祐介、起こしちゃったかな」

精いっぱい何気ないふうを装って答える。

「んーん、だいじょぶ」

言いながら祐介が起き上がる。

「なんかあった?」

「大丈夫。だいじょうぶ、だよ」

肩を抱かれる。触れた腕が、手が温ぬくい。自分のからだが冷えていることにはじめて気づいた。

見かけの愛らしさに反した筋肉、掴めるものがたくさんありそうな大きな手。そういう、見落としていただけで本当は男らしいところに昨晩は儚いロマンスを見出していた。けれど今は違う。琥珀のようなうっとりとした物語は、朝陽に当てられてすっかり姿が変わってしまった。祐介の温度が背中を撫でる。労わるような弄るような手つきはまだロマンスから抜け出せないでいる。その手を除けるわけにもいかず、受け入れるわけにもいかず、ただ息を潜めて途方もない苦しさに耐えていた。

言葉のない時間がおとずれた。何か起こるわけでもなく、秒針の音にも邪魔されない、ただゆっくりと過失を飲み込むために必要な沈黙だった。

祐介は大学の後輩で、弟のような可愛げがあるやつだ。こちらに気があるらしいことは噂で聞いていたし、悪い気はしなかった。昨日の飲み会で偶然隣に座って、いいぐあいに酔いが回って、ふと魔がさした。

「ね、抜け出しちゃおっか」

よくある筋書きの火遊びだ。今夜限りの秘密の誘いに、祐介は乗った。二次会へ行く流れの中をこっそり、手を引いて逃げ出した。酒場の灯りがひしめく賑やかな通りの隅に洒落たクラフトビールのバーがあって、わたしたちはそこへ隠れて上品にグラス二杯を空けた。恋人からの不在着信には二次会を抜けられそうにないのだと嘘で返した。守るべき境界がとろんと曖昧に崩れて、苦い口づけになった。最終電車に見逃された夜更け、わたしは祐介を拒まなかった。

悪くない文脈だった。ラブロマンスとしては上出来だった。夜が過ぎたあとのことなどより、その瞬間の雰囲気を、次の展開を考えて立ち回った。そのほうが物語は美しかったから。

間違えた。酔いが覚めて真っ先にそう思った。案の定嘘は恋人にばれていたし、愛想を尽かされた。当然のことといえばその通りだ。喪失感は空気が薄くなっていくようにじわじわととてつもなく大きくなって、時間をかけてわたしの首を絞めた。

小さなため息を合図にベッドから抜け出して、シャワーを浴びた。まるで何もなかったようにきっちり服を着る。頭は妙に冴えていて、夢から覚めたみたいに新しい気分で支度をととのえた。

窓を細く開けてみると、まだなんにも雑じっていない、冷えて綺麗に透きとおった朝がそこに満ちていた。人間はまだ眠っていて、秋の朝陽に居場所をつかまれた物たちだけがひっそり目を覚ましている。誰もいない裏通りは無口だけれど、なんとなく誰かと目が合ったような気がしてくる。

「やっぱ後悔とかしてます?」

わしゃわしゃと髪をタオルで拭きながら、祐介が声をかけてきた。

「え?」

「ほら、その……夜のこと」

言葉に迷って、もたつきながら続ける。

「彼氏、いるんでしょ」

探し当てられた事実を素直に肯定できないのは、なぜだろう。

今更だよ、とか、間違えたと思ってるよ、とか、いくつもの答えが浮かんできたけれど、どれもずれている気がして口には出さなかった。

「彼氏いるなんて言ったっけ」

「見てればわかりますよ。さっきもさ、なんか泣きそうだったじゃん」

え、と驚いて祐介の顔を見つめる。

「そっか、あたし、泣きそうだったんだ」

「うん、僕じゃダメなんだなって。めっちゃわかりました」

「そんな、ダメってことはないよ」

「ありますよ」

幼い子に言い聞かせるようにやわらかく、祐介はわたしの言葉を制した。

「先輩は自分で思ってる以上に彼氏さんのこと好きなんだと思うけどなぁ」

そして大きく腕を広げて伸びをして、欠伸に紛れて呟いた。

「かなわないなぁ」

遠くで電車の走る音がした。

 

 

鍵を返して外へ出る。穏やかな朝だ。あたたまっていない空気が肌にしみる。通りにはわずかに風が吹いていて、ネオンも客引きも送迎タクシーも街から引き算された素朴な寂しさを感じとれた。昨夜のぼって来た坂道をなぞって駅のほうへと下る。手は繋がないで、先輩と後輩のあるべき距離に戻る。下り坂で歩幅の違いにぎくしゃくしながら、道の真ん中を二人きりでただ歩いていった。

まだシャッターの降りている店と店の間にひっそりと、地下鉄の出口はあった。

「じゃあ俺、ここで」

「うん、」

言うべきことがあるような気がして口を開きかけたものの、まとまらなくて不恰好な沈黙になってしまった。かすかに駅員の声の放送が聞こえてくる。

「ごめんね」

それだけをやっとのことで声に出した。

「お互いさまっすよ」

そう言って祐介は笑った。寝坊して授業に遅れたときによく見せる、いつものやんちゃな笑い方だった。

「じゃあまた。大学で」

改札へ続く階段を彼は降りていった。

本を読み終えて閉じたときのように、ふーっと息をつく。五時三十二分。電車はとうに動いているがこのまままっすぐ帰るような気分にもなれない。昨晩の余韻はとうに消えていたが、感情があれこれ混濁していてどうにも落ち着かない。変に静かな気分、それから、取り返しのつかないもどかしさ。いたたまれなくなって、来た道を引き返す。

 

 

恋なんてするもんじゃないと、ずっと思っていた。

恋が悪いのではない。わたしは恋をするのが下手なのだ。うまく好きなひとと付き合えてもだんだん歯車が噛み合わなくなって、わたしから離れていってしまう。なぜだかわからなかった。知らないうちに道を間違えていたのか、それとも歩幅が違うのか、ふたりの距離はどんどん開いて離ればなれになってしまう。一緒にいても他人事を傍観しているような、額縁の外から絵を眺めているような隔たりが生まれる。それは追いつこうとするほど明確になって、どんなに言葉を尽くしてもついに覆すことはできなかった。

思えば今の恋人と知り合ったときも彼とは別々の世界で生きているような気がしていた。だから惹かれたといえばその通りなのだけれど、縮めようのない距離は残酷だった。彼は信じられないくらい透きとおった声をしていた。わたしは恋をした。絶対に誰の手にも入らないその声を一番近くでずっと聴いていたいと、思ってしまった。それが叶っても、長く続きはしないことだと心のどこかでは知っていた。

それから先、その恋にはすっかり怯えてしまった。彼はわたしをほんとうによく見ていた。人付き合いが下手なのを知られるのが怖くて、たびたび嘘をついて自分を繕った。おそらく彼は小さな嘘も、わたしの抱えていた決定的な孤独すらも見抜いていたのだろう。ふらふら浮ついている私の本心が彼の切れ長の目に間違いなく捉えられたとき、あのときほど人間を間近に感じたことはなかった。無意識に手を伸ばして彼の袖を掴んでいた。少し困ったような微笑みで抱き寄せられて我に返ったわたしは、もう彼に嘘などつくまいと脆い決意をしたものだった。

冷えた風が吹いて、金木犀の香りがした。あ、と声に出してきょろきょろ辺りを見回す。民家の庭に背の低い木が立っていた。甘い香りはそこからくるようだった。恋人の名前を呼びたくなった。薄手のワンピースで会いに行った日も、初めて手を繋いだ日もこんな風が吹いていた。秋、三つ目の季節は弱くなる。そばに居てほしいとか、会いたいとか、似合わない台詞が自分の脳裏に浮かんでしまって、しかも妙にしっくりきてしまって、ひとりで立っていられなくなる。これがきっとさみしさなのだ。

見覚えのある看板が目にとまって、思わず立ち止まった。黄色いペンキの上から英字で店名を書いた、いかにも手作り感のある自家製アイスクリームの店だ。ここには一度、恋人と来たことがあった。あれは暑い七月の休日で、狭い日陰にふたりで無理やり入りながら店のメニューを見ていた。散々悩んだあげくチョコレートを選んだわたしは、彼に言った。

「期間限定、選ぶタイプなのね」

「限定モノには寿命があるからね」

「ひとくち」

「どうぞ」

口もとに差し出されたスプーンをぱくりとくわえると、彼は満足そうな笑みで言葉を続けた。

「今日こそはと思っても、結局毎回また今度にしようってなってさ。そうやって間抜けな気まぐれを繰り返して、なんだかんだ続いていくのがちょっと楽しみだったりするんだよ」

 

 

ふいに着信音が鳴った。恋人からだ。途端に怖くなった。ただでさえ電話は苦手なのだ。文面をよく練ってから送るほうがずっといい。止まらない着信音に急かされる。出られない正当な理由がないのだから、出るほかない。

「……もしもし」

「もしもし」

涙がこみ上げてきた。大好きな声がした。

「今、平気?」

「うん」

「家にいるの?」

「ううん、外。歩いてる。用事はないけど」

ためらうような間があって、そっか、と小さな声が返ってきた。

「あの……知ってたの?」

恐る恐る尋ねる。昨夜のことを、とは言わなかった。言わずとも疚しいことはそれしかなかった。

「ごめん」

どうしてそこで彼が謝るんだろう。どうしてわたしは何よりも先に謝れなかったんだろう。ああもう、馬鹿だ、馬鹿だ。髪を掴んでくしゃくしゃにしながら、歩調が無意識に速くなる。

どこをどう歩けば行き着くのか、知らぬ間に細い路地に迷い込んでいた。アパートの壁沿いに冷房の室外機、自転車、割れた植木鉢が黙って並んでいる。自分の存在がひどく場違いに思えた。数歩先、路地の途切れ目に色褪せた看板が立ててある──この先私有地につき行き止まり。

「俺さ、楽しかったよ」

わたしと彼とは、きっとここまでなのだろう。

「嘘でも遊びでも楽しかった」

いつもより低くてくぐもった、けれど確かに微笑みをたたえた声色だった。好きだなぁ、と思い直して、言いかけて、やめた。

「あたしも楽しかった」

「それも嘘かほんとかわからないけどね」

消えそうな声で彼は言った。

やるせなかった。どうして嘘をついてはいけないのか、今になってやっと理解できた。弁明も謝罪もなにもかも、すべての言葉が無力になってしまうのだ。やり場のない後悔と罪悪感が今さらになって湧いてきた。ただやるせなかった。

何を言おうにも言えないまま、不恰好な沈黙のなかをただひたすら歩いた。どこかでトラックの走る音がする。顔を上げると、横断歩道の信号機が赤く光っていた。いつの間にか大通りまでたどり着いていたらしい。ぐるりと見渡しても人も車もいない。それでも律儀に立ち止まって青に変わるのを待つ。

「俺さ、うまくやれてたと思うんだ」

明るい声になって彼は言った。

「甘いよなぁ俺も。でも好きだったからさ、何があっても」

「……あたしにはもったいないよ」

信号が点滅する。

「俺はそんなこと──」 

「あるんだよ」

かぶりを振って、彼の言葉を制した。

嘘になってくれればいいのに。やっぱりわたしに必要なひとだったのだと、今さら気づきたくなかった。

信号が青に変わる。

「もう会うこともないと思うからさ、」

お願いだから、それ以上言わないで。

「ありがと」

私が言うはずだった台詞。

「幸せになってね」

あぁ、ほんとうに、どうしようもなく好きだったんだと、気づいた。

 

 

 

 

 

 

◆ハルト

 

またやってしまった。悪い癖だ。まったく、嫌になる。

コーヒー代を置いてカフェを出たわたしは、迷うことなくスマートフォンの通話マークをタップした。陽気な呼び出し音が二周、三周して、無愛想に途切れる。

『どうしたの』

声は若い男のものだ。

「振っちゃった」

『彼氏?』

「うん。もう彼氏じゃないけど」

『へえ、そう』

「うん、そう」

男は心底どうでも良さそうに欠伸をした。

『それで? 僕に告白でもしたいわけ?』

「こっちから願い下げよ」

思わずくすくす笑っていると、男は急に優しい声を出して言った。

『よかった。やっと楽しそうな声が聞けた』

どくん、と心臓が脈打つ。こういうところが良くないのだ、この男は。

「……とにかく、今夜一杯付き合って。どうせ暇でしょ?」

『きみに呼び出されることなんて滅多にないからね。暇じゃあないけどさ』

じゃあいつもの店で、と朗らかに告げて電話を切る。これで歩みに行き先ができた。いくらか軽い足どりで信号を渡る。路地に入る。

いつの間にか日は沈み、夜がはじまっていた。夜は好きだ。あたりが暗いと落ち着く。なにかに包まれているような安心感がある。昼の太陽は眩しくて、わたしにはちょっと似合わない。それはあの電話口の男──ハルトも同じだ、と思う。というのも、わたしがあの男に出会ったときも、たまに一緒に酒を飲むときも、いつだってそれは夜のことだった。眠らない街の歩き方も、赤ワインの味も、みんなハルトに教わった。

ハルトと出会って半年以上は経っているが、しかし彼の素性をわたしはよく知らない。名前だって偽名だし、仕事はなにをしているんだかわからない。わからないが、金なら持っている。わたしは今まで彼といて一度たりとも財布を出したことがない。その代償を要求されたこともないし、恋慕や愛情なんてものは断じてない。ある晩バーで隣に座った、ただそれだけでつながっている関係。

おかしな男だ。けれど妙に居心地が好い。寂しさを埋められる程度にはそばにいてくれるけれども決して深入りはしない、そんな割り切った他人らしさが楽だった。

 

 

ワインで火照った顔を右腕の頬杖で支えながら、わたしは向かいに座るハルトの顔を眺めていた。整った顔立ちに酔いは微塵も見て取れない。むかつくほどに涼しい表情でチーズをつまみ、グラスを傾けている。わたしは大袈裟にため息をついてみせた。

「なにさ。人の金で酔っぱらっといて」

答えないでいると、ハルトは手を止めてこちらを見た。

「今度の彼氏とは何日続いたの?」

「えーっとね、三ヶ月」

「おぉ。最長記録じゃん」

「よく覚えてんね」

「なんで付き合ってたの?」

「なんで別れたのって聞き方しないあたりが性格いいよね」

「それはどうも」

彼はにこにこと笑う。笑ったまま問い詰める。

「で、なんで?」

「うーん」

カフェに残してきた元彼のことをちらりと思い出す。

いいやつだった。一つ年上で、クールだけれどちょっと孤独で、付き合い始めるととことんわたしを甘やかした。可愛がってくれた。奇しくも名前を春人(はると)という。

「あたしのことが大好きだったから、とか?」

「なにそれ」

「わかんない。でも蓋を開けてみたらなんか違うなーって思った。あたしが惚れた、あたしが欲しがってたはずの男はどこにもいなかった」

「ふぅん」

ハルトは興味なさそうな声を出して、ワイングラスを上品に空けた。

「みーんな、にせもの」

わたしは伸びをしながら小さく呟いた。ハルトはなにも言わなかった。

「ねえ。いつか本当に好きな人ができたとしてさ、その人の名前がハルトだったらさ」

ワイングラスを揺らして、止める。

「『ほんもののハルト』を、あたしは見つけられるのかなあ」

曖昧な沈黙が横たわった。

 

終電は零時九分で、それを逃すことは許されなかった。だから、長針が右に大きく傾いているのを見た途端、十二%のアルコールがさあっと引いていくのを感じた。

「やばい」

「そんなに家厳しかったっけ」

「逆鱗」

本気で慌てているわたしをよそに、ハルトは駅とは反対方向にふらりと歩き出した。

「どうするつもりー?」

数メートル先で止まって振り向き、ハルトが声を張る。

「どうするもなにも……」

あぁもう、と髪をくしゃくしゃに掴み、わたしは覚悟を決めた。

「こうするしかないでしょうよ」

──彼氏と泊まってきます。連絡遅くなってすみません。心配しないで。

メッセージを送信してすぐ、逃げるように画面を閉じる。宛先は母親。こうなったら門限など破ったもの勝ちだ。

「ロマンチックの欠片もないね」

いつの間にかそばに戻ってきていたハルトが耳元で言った。驚いてびくっと震えると、ハルトはからかうように笑った。

「ほら行くよ」

妙に余裕のあるハルトを見て、ぼんやり思った。どうしてこの男はいつも飄々としているのだろう。どこまで先のことを考えているのだろう。一緒にいる時間は少なくないはずなのにまるでわからない。いや、理解しようとしてこなかった。彼はそういうひとなのだと割り切って付き合ってきた。しかし今、終電を逃して夜の街を歩いている今、考えずにはいられない。もしかしたら彼はいつかこうなることを期待していたのではないか? 彼も所詮、──そんな言い方はしたくないが──所詮は男なのだ。

ぐるぐる考えながらハルトの後についてコンビニに入り、彼の通った道をそのままなぞってただ歩く。十六番を、と声がする。また歩く。ぐるぐる考えながら。

不意に左手を握られた。ラブホテルの煌びやかな看板を通り過ぎようとしたわたしを、ハルトが少し力を入れて引いた。互いになにも言わなかった。ただ鼓動が慣れない早鐘を打っていた。導かれるままに部屋まで辿りついて、背後でドアが閉まる重い音を聞く。そこでやっと現実が見えた。

来てしまった。よりにもよってこの男と。

「親にはなんて言ったの? きみ、逆鱗に触れたんでしょ」

ハルトはさっさと靴を脱いでつかつか進み、まるで自室に帰ったような振る舞いで鞄をソファに置いた。

「……彼氏と泊まってきますって言った」

「っはは、彼氏? 僕が?」

「だって……!」

「わかってる、わかってるって。いやあ愉快だね。それいいね」

「だぁから、そういうことにしといたってだけだってば!」

むくれてみせるが彼の笑いはおさまらない。そういえば、腹を抱えて笑うハルトなんてはじめて見た。案外かわいいものだ。なんて、こんな調子だから彼のペースに巻かれてしまうのだ。わたしは思い出したように口を尖らせてみせた。

「そういえばしたことなかったね。家族の話」

ベッドの端に腰掛けてハルトは言った。

「きみは確か兄弟はいな──」

「ね、」

遮って彼に歩み寄る。

「今は忘れさせて? 今だけ。あたしたちふたりっきりなんだから」

彼の唇に指で触れる。甘い声で言葉を制する。目で誘う。距離があと数センチ、数ミリ、そして、目を瞑る。

「ふぅん」

企んだ口づけはおあずけを食らった。代わりに低くて冷たい声。はっとして目を開ける。瞬きをしたその隙、からだがふわりと浮いた。

「きみがそのつもりなら僕も応えるよ。ただ」

ふかふかのベッドを背中に感じる。身動きが取れない。

「誰かの代わりをする気はない、かな」

ハルトはまっすぐわたしを見据えて言った。

「はじめて会ったときからそうだった。きみは僕を通して違う誰かを見てる。誰か――そうだな、きみに傷を負わせた人間がいるんだろうな」

わたしは顔を背けた。目元を腕で隠した。ずっと蓋をしていた記憶がまざまざとよみがえってきた。自ら恋を手放してしまった、その苦しみを思い出した。堰を切って溢れてくる不安と悲しみと虚しさが涙にならないように、堪えるのがやっとだった。ハルトの前で泣くわけにはいかない。弱った自分など晒したときにはこの男がなにをしでかすかわかったもんじゃない。これ以上彼に、このハルトに頼りたくなかった。きっと彼も「ほんもの」ではないから。

「……ごめん」

声の震えがばれないようにわたしは小さく呟いた。

「いいよ。僕もただ、手負いのきみを手懐けてみたかっただけだからね」

ハルトは優しい声で言うと、わたしに覆いかぶさっていたからだを起こした。

「湯船にでも浸かっておいで。せっかくのご宿泊(ステイ)なんだから存分に使わないと」

こくりと頷いたわたしの背を、彼はそうっと押した。

肩までお湯に沈めながら、わたしはハルトの台詞を思い出していた。わたしに傷を負わせた人間がいるとしたら、それはわたし自身だ。夜を渡り歩いて繰り返した火遊びでは、わたしは満たされなかった。踏み込まれるのが怖いくせに孤独でしかたなかった。一夜限りのロマンスを選んだわたしは、恋人を失った。

馬鹿な話だ。自分が嫌になる。わたしは息を吐きながらぶくぶくと湯船に潜った。

 

 

わたしが浴室から戻ってきても、ハルトはちゃんと部屋にいた。

「煙草、いいかな」

ガラスの灰皿を引き寄せて彼は言った。

「あれ、煙苦手じゃなかったの? いつも避けてるじゃん」

「まあね」

大きな手が雑にライターを点けて火をおこし、くわえた煙草の先を燃やした。深い息とともに煙を吐くさまは、有無を言わせず人を拒む壁のようなもので守られているみたいに見えた。

じっと見ていたら、

「吸ってみる?」

彼は真面目な顔のまま吸いさしの煙草をこちらに差し出した。

「え、でも」

「教えてあげよう。ほら持って」

言われるがままにフィルターを持って、見様見真似でくわえてみる。息は吸っていいのか吐いていいのか、よくわからなくてしばらく堪えていた。

「吸って」

苦味の雲が口の中に満ちてくる。

「吐いて」

白く濃い煙が天井のほうへ昇ってゆく。

「そう、上手だ」

ハルトは満足げに微笑んだ。

「へんなかんじ」

「そういうものさ。火をつけて燃やしても消えるわけじゃないし、煙は余計に面倒を招く」

短くなった煙草をわたしの手から預かると、彼はその火を消した。

「この味もきっと、いつか心地よくなるよ」

「そうかなあ」

「きみがあんな誘い方を覚えたみたいに、ね」

「……お見苦しいところを」

「いや、なかなかよかったよ」

「思ってないくせに」

「ほんとだってば」

絶対にからかわれている、それはわかっているが、お世辞でもなんでももらえるものなら喜んで受け取る。それはわたしに価値がある証拠になるから。

「そうやって笑ってるぐらいがいいよ。きみは悪い女になりきれないだろうからね」

 

 

ライターの音は憚らずに鳴る。彼が目を覚ましてしまうかもしれない、と思った。

昏い部屋は窓から漏れてくるひかりに包まれて、薄い水色のヴェールがかかったように見える。ゆっくりと流れていく時間はさながら寝息のようで、わたしはソファにもたれながらそれを見守っていた。夜は明けた。彼とお別れをしなくてはならない。

こっそり頂戴した煙草に火をつける。煙を肺に入れて、大きく吐いた。胸のあたりがぎゅぅ、となる。喉に苦味が残る。苦しくて、少し懐かしい。

ハルトとはもう、会うことはないだろう。涙なんか流れないし、名残惜しくもない。ただ、煙草の煙が目にしみて痛いだけ。

ドアを静かに閉める。

少し冷たい朝のなかを歩きながら、わたしは考えた。ハルトは目を覚ましていたのかもしれない。わたしが離れていくのに気づいていて、それでも眠ったふりをしてくれていたのかもしれない。それが、もし彼なりの挨拶なら、しかと受け取らねばならない。

これからどこへ行こう。なにを探して生きてゆけばいいのだろう。なんにもなかったことにはできない。傷を背負って、それでも愛してくれる「ハルト」に、わたしは出会えるだろうか。陽のひかりは眩しくて、見つけるまでに時間がかかりそうだ。