shaula

愛すべき赤の他人

締まりのない話

 部屋は片づいていないけれど別にいい。大切なギターは好きな人に預けた。あとで伏線に気づいたらあいつは泣くかもしれない。返信していないメッセージもない。ないけれどあいつにまた明日ねって送っちゃったっけか。まあいい。それから、遺書。遺書も書いた。ちゃんと印を押したのなんてバイトの雇用契約書以来だった。

 いざ死のうとすると、冷静にこなさなければならないあれこれが案外多いことに気づく。考えだしたらキリがないからやっておかないと困ることだけ済ませた。それでももうじき朝の四時だ。のんびりしすぎた。深夜のテンションのうちに死んでおこうと思っていたのに。死にたくなったときに勢いで死ねるように、前もって準備しておくに越したことはないみたいだ。あぁ、これSNSにでも書いておくべきだったかな。まあいい。とにかく死ぬ支度はできたのだ。行こう。

 窓を細く開けてみると、まだなんにも雑じっていない、冷えて綺麗に透きとおった朝がそこに満ちていた。人間はまだ眠っていて、朝陽に居場所をつかまれた物たちだけがひっそり目を覚ましている。誰もいない裏通りは無口だけれど、なんとなく目が合ったような気がしてくる。気がする、ってだけの立派な思い過ごしだけれど、街っていうものは確実に息をしているらしかった。

 これで見納めかと思うとちょっとだけさみしい。早めにチェックアウトして帰路につかなければならない一人旅の最終日朝くらいにはさみしい。朝食バイキングくらい食べたかった。

 そういえば空腹だったな、と思い出した。すっかり忘れていた感覚を久しぶりにおぼえた。といっても今から死ぬのだ。口にするのはカフェのモーニングじゃなくてオーガニック自家製毒物で、味の保証はない。ゲテモノカラーにはなっていないにせよ灰褐色に濁ったさまは絶対に口にしていいものの色ではない。100円ショップで売っていた小洒落たガラス瓶に入れてみても申し訳程度の愛着すら湧かない。なんだか締まりがないなと思った。

 夏が来る前に自分の部屋にもエアコンをつける予定だったのに、夏より先に命日が来てしまった。夏は生きるのが面倒で好きじゃなかったから、別段名残惜しくはない。秋を迎えられないのは痛いけれど、秋に自分が生きているというのがまったく想像つかなかった。秋。金木犀の香りに気づいて好きな人のことを考える、三つ目の季節は弱くなる。そばに居てほしいとか、会いたいとか、反吐が出そうな台詞が自分の脳裏に浮かんでしまって、しかも妙にしっくりきてしまって、一人で立っていられなくなる。秋を羨んで待つ夏のほうが、じつは悪くないのかもしれない。

 まあいい。もういいのだ。せっかく支度ができたというのに、こうつらつらと考え事をしているようではいつまでたっても死ねない。支度の遅い家族を玄関で待っている休日のお父さんくらいにはもどかしい。

 腕を広げて伸びをしてみた。少し眠い。四半刻ばかり時計が進んでいる。朝も近い。そろそろ死のう──どこで死のう?

 伸びがぴたりと止まってしまった。どこかでトラックの走っている音がする。目をぱちくりさせて記憶を辿る。どこで死ぬか決めてたっけ。

 まったく不出来な脚本である。死に場所というのは、思い出やら憧れやら懐かしさやらを楔にして生を綺麗な過去に仕立てあげる。願わくば桜の下にて春、とか、最終回に出てくる第一話のオマージュとか、ふつうそういう大事なものなんだろう。たぶんそうだろう。大事なはずの死に場所にまで気が回らなかったことに、当日気づく。まったく不出来な脚本である。

 そもそも、死にたい理由だって大したものではないのだ。話が済んだら電話を切る。用がないなら帰る。眠いから寝る。この調子で生きているくらいなら死ぬ。それだけのことだ。何かの記念に死ぬわけでもあるまいし、自分が最後に生きる場所とか、自分の身体を置いていく場所のことなんか気にも留めなかった。場所だけじゃない。日付も、時間も、昨日の夕飯も、なんにもこだわっていなかった。

 こだわっていなかった。そんなものだろう。こだわりがないから決めてもいない。死のうと思ったのと同じことだ。それでいい、もういいかと思って死ぬのだから。考えすぎて疲れてきた。いいかげん死のう。

 毒の瓶を開ける。ずっと手に持っていたからか体温でぬるまっていた。少しだけ不穏な、心拍が速くなるような匂いがする。なんだか気が向かない。冷たい水が飲みたい。できたら──まあいい。

 瓶に蓋をした。水槽から出られない金魚が水底で途方に暮れている。鍵を失くして家から出られないでいる。永遠におとずれない1131日を待っている。そういう類の人生もある。

 生きていればいつでも死ねる。期間限定フレーバーのアイスには明確な寿命があるけれど、バニラならいつでも食べられる。いつでも食べられるなら今度でいいやと思って、結局毎回バニラは選ばない。そういう間抜けな気まぐれを繰り返してなんだかんだ生きていく羽目になる。切るに切れない長電話になりそうだ。

 少し眠ろうか。目が覚めたらあいつに会いに行こう。ギターを預けっぱなしだったから。なんだか締まりがないなと思った。