shaula

愛すべき赤の他人

ルージュの楔

 件の赤い染みに気がついたのは昼間、洗濯物を干しているときだった。翌日には出かける予定が入っていた。服装に特段の知識もこだわりもない僕は、いつものように白いシャツと明るめの藍のデニムで出かけるつもりでいた。しかし着ていくはずだった白いシャツをハンガーにかけたとき、厄介なものを見つけてしまった。それは左肩と胸の間あたりについていて、3センチほどの細長い染みだった。赤、といっても真紅というよりは桃色に近い、しかし深みのある色をしていた。僕には心当たりがなかった。しばらくの間、染みを見つめて考えこんだ。胸ポケットに入れていたボールペンの赤インクだろうか。それにしては色が薄い。何かの食べ物だろうか。それにしては位置がおかしい。そもそもこんな色のものを食べた覚えはない。だとすると──僕は最後にこのシャツを着た日のことを思い出そうと頭に手をやった。

 三十五度を記録したやけに暑い日だった。その日、偶然昔の恋人と会ったのだ。
 日が暮れてからもアスファルトの熱は無くならず、ぬるま湯みたいな空気の中を歩いて帰っていた。途中で暑さに嫌気がさして、冷えた缶ビールでも買って帰ろうかとコンビニに寄った。店内は肌寒いほど冷房が効いていて、どことなくここが自分の居場所ではないような気になった。冷やされた全てのものたちがよそよそしく、さっきまでいたはずの世界とは空気が違う。何かを引きずるような暑さとはまるで違う。居心地のいいほうはどちらか、と聞かれたら冷房は捨てがたいが、この妙な空気にはどうにも不安を覚える。
 考えながら飲料コーナーの冷えたケースまでたどり着いた。扉を開けて缶ビールを取ろうとしたそのとき、横から人が現れた。背伸びをして手を伸ばしたのは同じラベルの缶だった。
「いつもこれだもんね」
 驚いた。昔の恋人がそこにいた。
「久しぶり」
 彼女は少し照れた顔で笑った。僕は一歩下がった。反応に困って言葉がつっかえた。どうしてこんなとこにいるの、とは聞いても仕方ないし、元気そうでよかったとはお世辞にも言えないし、会いたかった、は大嘘だ。
「久しぶり」
 とりあえず同じ言葉を返した。
「もっと驚くかと思った」
「驚いたよ」
「そんな驚いてなさそうに言われても」
 彼女は気分よくそう言って、青い花柄のワンピースをふわりと揺らした。そのままレジに向かおうとした彼女の手には缶ビールがあるままだった。
「ちょっと、それ、ビール」
「いーの。あたしが買ったげる」
 僕は慌てて彼女から缶をひったくろうとした。が、彼女はまたワンピースを揺らして躱す。
「じゃあさ、アイス買ってよ。それで貸し借りなしね」
「……はいはい」
 昔の彼女のことなんて、正直もう忘れかけていた。彼女が好きなアイス、彼女が好きな音楽も、彼女が好きだったということも。だから悪びれもせずに聞く。 
「どれがいいの」
 ほんのわずかな間を置いて、彼女は答えた。
「うーんとね、これ」
 取り繕うような声を出したのはきっと気のせいではないだろう。彼女の選んだ安い棒アイスのベリー味は、確かに何度か買ってあげたことのあるものだった、気がした。
「煙草、二十六番ひとつで」
 レジに声をかけ、会計を済ませて外へ出た。
「吸うんだ。煙草」
 袋から缶ビールを取り出して彼女は言った。彼女は煙草が好きではなかったから、付き合っていたときは禁煙していたのだ。だがそれも数年前の話だ。
「まあ、時々」
 鞄をごそごそ漁ってライターが入っていないか探す。ごくたまに、気を紛らわしたいときにだけ吸うから、毎日確実にライターを持っているわけではない。しかし今はそんな説明をしたくなかった。僕にとって彼女は過去である。僕が彼女との恋のために禁じていた煙草をふたたび吸うことは、彼女に刺さるはずだ。頻度など関係ない。もう彼女を気遣うような立場ではないのだという意味を、このマールボロは持っていた。
 アイスと缶ビールを交換して僕と彼女は歩き出した。蒸し暑い夜だった。コンビニでまとった冷気のせいで、外に出た瞬間は布団をかけたときのような暖かさを感じたが、すぐに暑さを思い出した。
「今なにしてんの?」
 彼女がアイスの袋を開ける。
「論文。院の」
「そっか、大学院受かったんだね」
 彼女はなんでもない調子でそう答えて、とけかかったアイスを器用に回して地面に落ちないように食べていた。
 就職せず大学院に進んだことを彼女には伝えていなかった。すっかり忘れていた。忘れていたけれど罪悪感はわいてこなかった。缶ビールに手を伸ばして、やめる。煙草のビニールを破ってぎゅうぎゅうのボックスから一本取り出した。彼女はなにも言わない。僕もなにも言わない。言わなくてもわかっているというより、今は言葉が余計だった。
 歩調は自然と合っていた。黙っていても気まずくはなかった。お互いがそこにいるだけで生まれる安定は、まだ消えていなかった。火を点けた煙草をなんとなくふかしなから、僕は彼女が恋人だった2年半を思い出していた。いつの間にか隣にいるのが当然のことになり、好きだから、という行動の動機が薄れていった。別れを切り出したのは僕のほうだった。彼女は案外あっさり受け入れた。いざ失ってみるとやはり寂しさはあるものだったが、それもすぐに消えた。それ以来独り身のままだ。
 唐突に彼女が足を止めて、ガードレールに腰掛けた。
「あたしたちってさ、なんだったのかな」
 努めて明るい調子で言いながら、彼女は最後の一口を食べた。
「なんだった、ってどういうこと?」
「甘くて、恋人らしかったのなんてさ、一瞬だったでしょ」
 答えるかわりに僕は煙を吐いた。黙ったまま彼女はルージュを塗り直した。
「あのさ」
 彼女の声は少しだけ震えていた。
「2年とちょっと、ほんとに好きだったよ」
 途端、僕の中で蓋をしていた何かが溢れてくるのを感じた。鼓動が騒ぐのを感じた。吸いさしの煙草を捨てて、踏んで火を消した。あぁそうだ。僕はこのひとに恋をしていたのだった。失ったものを今になってやっと知った。唇にふれる。口づけは許されるだろうか。いや、終わらせるのに口づけはそぐわない。僕はそっと彼女を抱き寄せた。小さな彼女は僕の胸のあたりに顔をうずめて、しばらく離れようとはしなかった。きっと彼女の口にはまだアイスの甘さが残っているだろう。僕には、苦い煙草の味しかわからない。